2015年10月16日

高橋長老の御教書 徒然編1

              ありがたいお話であるから正座して読むよ~に

徒然編1 長老定演に出演する

 愛好会の定演の日、長老は身寄りの人に車で送ってもらった。会場のAOIには指定された時刻より15分ほど早く着きそうである。「これだけ早く来る会員はそうはあるまい」と自分のやる気を自慢しようとした師だったが、AOIの搬入口には、すでに多くの会員たちが集まっていた。自分よりやる気のある会員がこれだけ多くいるとわかり、師の目論見は瞬時に頓挫した。
 軽い失望感を抱いた長老だが、そのような雰囲気を微塵も見せるような師ではない。何気なく集団の中に入り、かねて用意のカメラで周囲の状況を撮影した。写真を撮る深い理由は何もない。何もせずにいるのが退屈なので、写真を撮っているだけである。
 待つ事しばし入館の時になって、実行委員から「ギターとセロの人は、パーカッションの道具を持って入るように」と指示が出された。ギターを抱えて荷物を運ぶのは体力的に無理があると抗議の声を上げたい師であるが、生来の気の弱さから何も言えず、言われるがままに荷物を運びこむのだった。「長老はやらなくてもいいですよ」との言葉を掛けられたが「では」と止めれば「やはり長老はもう寄る年波には勝てないのね」言われるに違いない。見栄張りの師にはそれは耐え難いことなのだ。
 リハーサルを始める前に、舞台に山台を組み、椅子や譜面台を並べる作業がある。ぎっくり腰の前科のある師は、軽い仕事を選びたいところである。しかし、大勢の男子がきびきびと動いているので、師も動かざるを得ない。やってみると、山台の板を運ぶのも、椅子を運び譜面台を並べるのも、体力的にはたいして変わらないのである。大勢でやったので、さほど体力を使わずに済んだようだ。「まだまだ私もお役に立てる」と師も安堵の心地であった。
 リハーサルは、予定通り始まった。曲の仕上がりに不安を持つ師は、リハーサルの練習で挽回を図るつもりである。1部の曲は、まずまず仕上がったようだ。2部も、前日の練習でだいぶ進歩した感じを得て、これもまずまずと納得顔であった。問題は3部の曲にあり、前日弾けていた箇所がリハーサルでは弾けないのである。焦った師は、昼食もそこそこに楽器を出して運指の確認を始めた。しかし、集中力に欠ける師はすぐにやる気を失い、「すべては天命に委ねよう」と練習を放棄して会員のたむろするロビーに出て行くのであった。
 いよいよ本番である。1部では弾けないところはやはり弾くことができず、弾けるところは弾けたので、師としては予定通りの出来であった。全体の出来がどうであったか、などと言うことは、余裕のない師には全く掴むことができず、曲が終わったことにただホッとしているだけである。
 2部の出来は、リハーサルの時より悪かったが、それも想定の範囲内で収まったので、師は、さほど落ち込むことはなかった。しかし、3部の出来は厳しいものだった。リハで弾けていた箇所でタイミングを外して見失う、そんなところが何か所も続出したのである。弾けなかったので間違った音は出ていない。しかし、これまで練習をしてきた苦労は何だったのか。「天命がこれほど厳しいものとは」と師は嘆いた。他の会員から「リハで完璧に弾けるときは、本番では弾けないものなんですよ」と慰められても心の痛手は消えるものではない。とはいえ、天性忘れっぽい性格である。楽器を仕舞う時点で既に心に痛みなど無くなっていたのである。
 師が舞台の撤収をすませてロビーに出てみると、「長老」と呼ぶ声がした。そこには、斉藤氏とその横に藤沢市から来てくれた田村夫妻がいる。また、市川夫妻も顔を見せた。いずれの夫婦も会員同士で結婚した愛好会OBである。すると「あそこにいるのは佐野君じゃないか」と斉藤氏が佐野氏を呼び寄せた。近くに佐野夫人もいたので、愛好会会員同士の夫婦が同時に3組そろった。いずれも愛好会初期の仲間であり、星霜を経たその容姿は、禿頭白髪の風体である。年長の師の方がちょっと若く見える気分がして、軽く満足感を覚えた長老であった。久しぶりの顔合わせで話が尽きない。しかし、撤収の時刻が迫っている。名残を惜しみつつ、来年の再会を約しての別れとなった。
 愛好会第41回定演はかくして終了し、師は「申し訳ないが」と打上げには参加せず、早々に帰宅した。家には、半年ぶりに里帰りした娘夫婦と孫が待っている。打上げよりも孫の顔を見たい師の心根は、会員の理解を得ることができるのか。

漢字の読み方
禿頭  とくとう
  


Posted by 静岡マンドリン愛好会 at 23:49Comments(0)高橋長老の御教書